記憶痕跡(エングラム):脳に刻まれた記憶の物理的実体
記憶は脳のどこに「貯蔵」されるのか:エングラムの探求
私たちが経験した出来事、学んだ知識、感じた感情といった「記憶」は、脳の中にどのようにして保持されているのでしょうか。この問いに対する神経科学的な答えを探る上で、重要な概念となるのが「記憶痕跡」、すなわち「エングラム(Engram)」です。エングラムとは、特定の記憶に対応する脳内の物理的・化学的な変化の痕跡を指します。本記事では、このエングラムの概念を掘り下げ、神経科学がどのようにその実体に迫ろうとしているのかを解説します。
エングラム概念の歴史と神経科学的挑戦
「エングラム」という言葉は、20世紀初頭にドイツの生物学者リチャード・セモンによって提唱されました。彼は、刺激に対する生物の反応が、その刺激によって残された痕跡(エングラム)に基づくと考えました。しかし、この段階ではエングラムはあくまで仮説上の概念であり、その物理的な実体は不明でした。
神経科学の黎明期において、記憶の物理的な基盤を探索した有名な研究者の一人に、カール・ラシュレーがいます。彼は、ラットの脳の様々な部位を切除し、迷路学習の成績に与える影響を調べました。その結果、特定の単一の脳領域を切除しても記憶が完全に失われるわけではなく、切除した部位の量に比例して記憶が失われることを見出しました。このことから、ラシュレーは記憶は脳全体に分散して貯蔵されているという「等能性(Equipotentiality)」の考えを提唱しました。この結論は、記憶が脳内の特定の局所に「点」として貯蔵されているわけではないことを示唆しましたが、エングラムがどのように脳に分散して存在するのか、その具体的なメカニズムは依然として謎のままでした。
神経回路とシナプス可塑性:エングラムの分子・細胞基盤
現代神経科学は、記憶が単一の場所に存在するのではなく、特定の神経細胞群(ニューロン)の集まりとその間の結合(シナプス)の強さや効率の変化として存在すると考えています。この神経細胞間の結合の変化は「シナプス可塑性(Synaptic Plasticity)」と呼ばれ、記憶や学習の基本的なメカニズムであると考えられています。
特に、記憶形成に重要な役割を果たす脳領域である海馬(Hippocampus)では、長期増強(Long-Term Potentiation: LTP)や長期抑圧(Long-Term Depression: LTD)といったシナプス可塑性の現象が詳細に研究されています。LTPは、特定のシナプスを繰り返し刺激すると、その後の神経伝達効率が長時間にわたって増強される現象であり、これは記憶の符号化(情報を脳に書き込むプロセス)や固定化(不安定な記憶を安定化させるプロセス)に関与していると考えられています。LTDはその逆で、神経伝達効率が低下する現象です。
これらのシナプスレベルの変化に加えて、エングラムの形成には、神経細胞内の遺伝子発現やタンパク質合成も関与しています。特定の神経活動が引き金となり、細胞内で新しいタンパク質が合成され、これがシナプスの構造や機能を変化させ、記憶痕跡を物理的に固定化すると考えられています。
特定のニューロン群とエングラム回路
近年の技術発展、特にオプトジェネティクス(光を用いて特定の神経細胞の活動を操作する技術)やカルシウムイメージング(神経細胞の活動を視覚化する技術)の登場により、特定の記憶に対応すると思われる神経細胞群を同定し、操作する研究が進んでいます。
ある記憶が形成される際に活動した特定の神経細胞群は、その記憶のエングラムを構成する候補と考えられています。これらの細胞は、海馬だけでなく、扁桃体(情動記憶に関わる)、前頭前野(ワーキングメモリや高次認知機能に関わる)など、記憶の種類や段階に応じて様々な脳領域に分布していることが分かっています。これらの異なる脳領域にある神経細胞群が、特定の記憶を保持するための神経回路を形成していると考えられています。
例えば、動物を用いた研究では、特定の恐怖記憶が形成された際に活動した海馬の神経細胞群をオプトジェネティクスによって人工的に再活性化すると、動物が再び恐怖反応を示すことが示されています。これは、これらの神経細胞群が実際にその記憶のエングラムを担っている強力な証拠となります。さらに驚くべきことに、これらの技術を用いて、実際に経験していない偽の記憶(Pseudo-memory)を動物の脳に人工的に植え付けることさえ可能になっています。
まとめ:エングラム研究の意義と今後の展望
記憶痕跡(エングラム)の研究は、記憶が脳のどこに、どのようにして物理的に「刻まれる」のかという根源的な問いに答えるための重要な試みです。セモンやラシュレーの初期の概念的な探求から、現代の神経科学は分子、細胞、神経回路といった複数のレベルでエングラムの実体に迫りつつあります。
エングラムは単一の場所に固定されたものではなく、特定の神経細胞群とその間の強固になったシナプス結合、さらにはそれらが構成する分散型の神経回路として脳内に存在すると考えられています。オプトジェネティクスのような最新技術は、このエングラム回路を操作し、記憶を操作することさえ可能にしつつあります。
エングラム研究の進展は、記憶の基本的なメカニズムを解明するだけでなく、アルツハイマー病のような記憶障害の病態理解や、新しい治療法の開発にも繋がる可能性を秘めています。記憶が単なる抽象的な概念ではなく、脳という物理システムに刻まれた痕跡であるという視点は、脳と意識、そして私たち自身の理解をさらに深めるための重要な一歩と言えるでしょう。今後のエングラム研究のさらなる発展が期待されます。